豊かな緑が、歩んできた年輪を黙して語り、街の風情にも、そこはかとなく歴史や伝統が薫る駒込エリア。そこは、明治の時代から「山の手」と呼ばれてきました。明治期における「山の手」エリアとは、<高台である武蔵野台地に位置していること>・<旧江戸市街地の範囲にあること>・<武家地跡に成立した住宅地であること>これらの条件を全て満たした場所でした。生粋の「山の手」を名乗るには、確かな資質を伴います。ブリリア駒込染井は、伊勢津藩藤堂家の広大な下屋敷跡地より、時代を超えて名士に継承されてきた「山の手」の真髄といえる場所に、刻んできた歴史や精神、そして染井の地ならではの美意識を次の百年へ継ぐ正統な邸宅です。
History - 歴史
百年山手
『資質』—武蔵野台地
関東平野の奥多摩から東京湾にかけて、谷の浸食をうけ複雑に入り組んだ地形で連なる武蔵野台地。その武蔵野台地の東端にある本郷台地は、上野台地を見晴らし飛鳥山に連なる場所にあります。
『盛栄』—繁栄を謳歌
駒込・巣鴨地域は江戸市中の西北部に位置しています。日光御成街道(現・本郷通り)や中山道など主要か移動に沿って街並みが伸びていました。本郷から駒込染井にかけては数多くの武家屋敷が集積していました。
『系譜』—名士に継承された地
江戸時代は津藩藤堂家下屋敷、明治期は岩崎弥太郎、その後には貴族院議長でもあった松平頼壽伯爵邸へと変遷。時代を超え名家から名士へ受け継がれた地としての誇りが確かな記憶として宿っています。
『染井』—ソメイヨシノ発祥の地
明暦三年(1657年)、津藩藤堂家の下屋敷が設置されました。出入していた植木職人の伊藤家は代々伊兵衛を名乗り、幕府御用の職人として江戸一の庭師でした。江戸末期、野生の大島桜を母体に新種の桜をつくり世に出すと、数年で江戸一帯に伝播しました。地域名を冠して「染井吉野」と改名した後は、瞬く間に全国へ広まり、今では桜の代名詞といわれる存在になっています。この地で継承された園芸とは、植物を素材とした美的な文化・芸術であり、新しい技術を磨き、更なる美を追求する“芸道”です。染井吉野は、名にし負う植木職人たちがそんな芸道の観点に立ち、幾世代にも渡る改良から生み出してきた、まさに園芸の神髄といえるものです。
※古地図資料提供元:古地図史料出版株式会社
※イラストはすべて概念図であり、実際とは異なる場合があります。
※上記画像にはイメージ写真等が含まれており、実際の設備や現状とは異なる場合があります。
※上記の内容は分譲当時のパンフレットに記載されている内容を基に掲載しております。