武蔵野台地の一角、高台の南端に位置するブリリア東中野パークサイドヒルズは、中野区主導による複合開発プロジェクト「東中野小学校跡地活用事業」の一環としてつくられました。高低差のある敷地形状を活かしたフォルムに加え、地層の重なりをイメージした水平ラインによって、重厚感を感じさせる構えが演出されています。
Concept - コンセプト
歴史ある高台で、多世代が集う集合住宅
ファサード
周辺との調和にも配慮し、外壁のタイルを柔らかな色調で統一すると共に、前面の道路に沿って、生垣と中〜高木の常緑樹を重ねた植栽を施し、街並に安らぎと潤いがもたらされています。
マテリアル
ファサードからエントランス、そしてラウンジへと、それぞれの空間ごとに多様な質感を持つ素材を組み合わせることで、豊かな表情が描きだされています。
※掲載の素材写真の色合い等は、実際とは多少異なります。
東中野小学校跡地活用事業
中野区主導により「東中野小学校」の跡地に、地域交流を活性化し多世代の暮らしを支える拠点として、良質な集合住宅とコミュニティ施設が一体的に整備されました。6,000m²超もの敷地には、新宿区が擁する区立公園や区民活動センター、保育施設などあり多世代が集い生活しています。
東中野区民活動センター
多目的室や調理室などを備えた地域交流拠点です。地域イベント等にも活用するため、公園と一体的に利用されています。
保育施設
待機児童問題の解消に寄与するべく、住宅棟内に保育施設が併設されています。建物内への動線は、住宅棟エントランスとは分けて設置されています。
※居住者の入園が優先されるものではありません。
中野区立おかのうえ公園
地域のニーズの応えるために開設された区立公園です。お祭りなど地域主催のイベントの会場としても活用されています。
この地が辿ってきた歴史
東中野・小滝台は、江戸時代に徳川将軍が鷹狩りの際に用いる「御立場」が置かれ、十代将軍・家治が訪れたことが、古文書にも記されている高台です。明治時代以降は広大な花園や、藤堂伯爵・陸軍大将の井上氏らも暮らす住宅地が拓かれ、さらに昭和の中頃から約半世紀の間は「東中野小学校」がありました。時と共に形を変えながらも、永きにわたり地域の人々から親しまれてきた土地となっています。
将軍が鷹狩りの際に訪れた「御立場」
現地付近は、江戸時代の頃に将軍が鷹を放ったり狩りを眺めたりするために用いられる「御立場」があった場所です。また、ここには旗本・中山主馬が屋敷を構えていたことから、「中山御立場」とも呼ばれていました。
約1万5千坪ものもの花園「華州園」
明治時代から大正の初期にかけては、約1万5千坪ものもの花園「華州園」が広がっていました。花の栽培が終わると一帯は住宅地として分譲され、藤堂伯爵や三越社長・中村利器太郎氏、陸軍大将の井上氏などが居を構えました。
地域の“核”として親しまれた「東中野小学校」
1956年に「中野昭和小学校分校」が開校し、翌1957年「東中野小学校」として独立しました。最も多い時では700人超もの児童が通学するなど、2009年に閉校するまで約半世紀にわたり、地域の“核”として親しまれてきました。
四季の彩りを感じる植栽
敷地の高低差にも配慮しながら、アイレベルで愉しめる植栽が施されています。緑料のある常緑樹と共に、四季の彩りを組み合わせることで多世代が集うコミュニティ拠点に相応しい、明るく爽やかな表情が見られます。
シマトネリコ
イジュ
サルスベリ
ジューンベリー
ヒラドツツジ
ブルーベリー
常緑ヤマボウシ
アガバンサス
※上記の画像は竣工時等に撮影したもので、現状とは異なる場合があります。
※上記画像にはイメージ写真等が含まれており、実際の設備や現状とは異なる場合があります。
※上記の内容は分譲当時のパンフレットに記載されている内容を基に掲載しております。